消防設備1,300万円超を巡る判例から考える、事業用物件の賃貸活用
親から店舗や事務所、テナントビルを相続したものの、自分では使う予定がない。
そこで、空いている区画を事業者に貸して、賃料収入を得たいと考える方も多いでしょう。
特に、クリニックや福祉施設などから申込みが入れば、一般事務所よりも長期入居が期待できる場合があります。
しかし、貸主がその用途を認めれば、借主がそのまま営業できるとは限りません。
建物の構造や設備、借主が使用する面積、事業内容によっては、消防法や建築基準法上の追加対応が必要になることがあります。
今回紹介するのは、クリニックを開業する目的で事業用物件を借りた医療法人が、契約後に高額な消防設備工事が必要になることを知り、貸主へ敷金の返還や損害賠償を求めた事例です。
裁判所は、借主が契約前に所轄消防署へ確認しなかったことを重大な過失と判断し、請求を認めませんでした。
この判例は、借主側の確認不足が問題となった事例です。
一方で、相続した事業用物件を貸す側にとっても、建物の履歴や消防設備の状況を把握しないまま募集を始める危険性を示しています。
クリニック開業のため、約1,322万円を支払って契約
借主は医療法人でした。
クリニックを開業する目的で、10階建てビルの8階部分、約204平方メートルを借りる契約を締結しています。
借主が支払った初期費用は、敷金約1,175万円を含む約1,322万円でした。
ところが、契約後に消防法上の問題が判明します。
借主が8階フロア全体をクリニックとして使用すると、建物全体が「複合用途防火対象物」に該当し、従来とは異なる消防設備上の対応が必要になる可能性があったのです。
法令に適合させるためには、主に次のいずれかの対応が必要とされました。
ひとつは、建物全体の屋内消火栓設備に非常用電源設備を設置する方法です。
見積額は1,300万円を超えていました。
もうひとつは、クリニックとして使用する面積を約10平方メートル減らし、その部分をクリニックから機能的に独立した区画にする方法です。
借主としては、契約した後になって、高額な設備工事を行うか、計画していた面積を減らすかの選択を迫られたことになります。
建物が違反していたのではなく、借主の用途で規制が変わった
この事例で重要なのは、契約時点で建物自体が直ちに違法な状態だったわけではないことです。
このビルでは、建築当時、一定の消防設備を維持することなどを条件として、スプリンクラー設置義務に関する特例措置が認められていました。
従来の使用状況では、その特例を受けた状態で建物が利用されていたのです。
しかし、8階全体をクリニックとして使用すると、建物の用途構成が変わります。
その結果、従来とは異なる規制が適用され、特例を改めて受けるための対応が必要となりました。
つまり、建物に最初から欠陥があったというよりも、新しく入居する事業者の業種や使用面積によって、必要な消防設備が変わったということです。
事業用物件では、同じ建物でも、一般事務所として使用する場合と、クリニック、飲食店、福祉施設、学習塾などとして使用する場合とで、適用される規制が異なることがあります。
前のテナントが問題なく営業していたからといって、次のテナントも同じ条件で営業できるとは限りません。
借主は入居前に解約し、約4,113万円を請求
借主は、消防設備の問題によって契約の目的を達成できないとして、物件へ入居する前に契約を解約しました。
これに対し、貸主は契約開始前の解約に関する特約を適用し、受領済みの初期費用から違約金約881万円を控除しました。
借主へ返還されたのは、約440万円でした。
借主は納得せず、貸主を提訴します。
請求したのは、控除された敷金相当額だけではありません。
電子カルテの導入費用や医師・スタッフの人件費など、開業準備のために支出した費用も含め、合計約4,113万円の支払いを求めました。
借主は、主に次のような主張をしています。
- 契約時からクリニックとして利用できなかった
- クリニックとして使用できると思って契約したため、錯誤がある
- 賃貸物件に契約目的を達成できない瑕疵があった
- 貸主には消防設備の事情を説明する義務があった
- 必要な消防設備は貸主が設置すべきだった
しかし、裁判所は借主の請求を認めませんでした。
工事費が高額でも「使用不能」とは限らない
借主は、消防法上の規制によってクリニックを開業できなかった以上、契約は最初から実現不可能だったと主張しました。
しかし、裁判所は、クリニックとして利用する方法が完全になくなったわけではないと判断しています。
非常用電源設備を設置すれば、条例上の特例を改めて受けられる可能性がありました。
また、使用する面積を約10平方メートル減らせば、複合用途防火対象物に該当しない形にする方法もありました。
非常用電源設備の工事に1,300万円を超える費用がかかるとしても、法的・物理的に利用できないわけではありません。
そのため、裁判所は、契約締結時からクリニックとしての利用が不可能だったとは認めませんでした。
事業用物件では、必要な工事費が高額であることと、物件を目的の用途に使用できないことは、別の問題として扱われます。
採算が合わないという事情だけで、直ちに貸主の責任になるわけではありません。
消防署へ確認しなかった借主に重大な過失
この判例で最も重要なのが、借主の事前調査に関する判断です。
裁判所は、借主が契約前に所轄消防署へ照会していれば、建物が条例上の特例を受けていることを知ることができたと判断しました。
さらに、クリニックとして使用することで、改めて特例を受けるための対応が必要になる可能性についても、事前に把握できたとしています。
つまり、契約後でなければ発見できない問題ではなく、契約前に消防署へ相談していれば判明した問題だと評価されたのです。
そのため、借主に「問題なく開業できると思っていた」という思い違いがあったとしても、事前に照会しなかったことは借主側の重大な過失と判断されました。
事業用物件を借りる際は、貸主や不動産会社に確認するだけでは足りません。
予定している事業が消防法や建築基準法などに適合するかどうかは、所轄消防署、建築士、保健所などへ確認する必要があります。
「クリニックとして使用する」と書いても、貸主の保証にはならない
借主は、クリニックを開業する目的で契約した以上、貸主が必要な消防設備を用意すべきだとも主張しました。
しかし、裁判所は、この主張も認めませんでした。
契約書では、賃貸借の目的物の種類が「事務所」とされていました。
また、クリニックとして使用する旨の記載も、借主の使用方法を限定する内容であり、貸主に必要な設備の設置義務を負わせる内容にはなっていませんでした。
消防法上、消防用設備の設置や維持に関係する者には、所有者だけでなく、管理者や占有者も含まれます。
そのため、借主の用途によって新たに必要となる設備について、必ず貸主が費用を負担するとは限りません。
誰が工事を行い、誰が費用を負担するかは、賃貸借契約の内容によって決まります。
契約書に「クリニックとして使用する」と書かれているだけでは、貸主が開業に必要なすべての法令対応や工事費用を負担すると解釈することは難しいとされました。
相続した物件では、所有者自身が建物を把握していない
今回の判例は、相続そのものを巡る事例ではありません。
ただし、相続した店舗、事務所、テナントビルを貸す場面では、同じような問題が起きやすいと考えられます。
相続人は、建物を取得した時点で、その建築経緯や設備状況を十分に把握していないことがあります。
たとえば、次のような資料や情報が見つからないケースです。
- 建築確認済証や検査済証
- 建物の図面
- 消防設備の点検報告書
- 過去の用途変更の記録
- 増築や改修工事の履歴
- 消防署との協議記録
- 特例措置を受けた経緯
- 過去のテナントの業種
- 行政から受けた指導や是正内容
親が長年管理していた建物であっても、相続人がその内容を把握しているとは限りません。
管理会社へ任せていた場合でも、すべての書類が整理されているとは限らないでしょう。
この状態で新しいテナントを募集し、「クリニック可」「飲食店相談可」などと案内すると、契約後に必要な工事が判明する可能性があります。
「用途を認めること」と「営業できること」は別
相続した事業用物件を貸す際に、最も注意したいのがこの点です。
貸主がクリニックや飲食店としての使用を承諾したからといって、借主がそのまま営業できるとは限りません。
少なくとも、次の事項は分けて確認する必要があります。
貸主が用途を承諾すること
賃貸借契約上、その業種で物件を使用することを貸主が認めることです。
行政上、その事業を営業できること
消防法、建築基準法、医療法、食品衛生法などの要件を満たし、必要な許可や届出を行えることです。
必要な設備工事を実施できること
消防設備、電気容量、給排水、換気、排気、防音などの工事が、建物の構造や管理規約上可能であることです。
工事費用の負担について合意していること
必要な工事を、貸主と借主のどちらが行い、どちらが費用を負担するか決めていることです。
この四つを一緒に考えると、契約後の認識違いにつながります。
「クリニックとして貸してよい」という貸主の承諾は、「追加工事なしで開業できる」という保証ではありません。
相続した店舗やビルを募集する前に確認したい資料
相続した事業用物件を貸し出す前には、まず建物に関する資料を整理する必要があります。
最低限、次の資料を確認しておきたいところです。
建築確認済証・検査済証
建物がどのような用途で建築確認を受け、完成時に検査を受けたかを確認します。
書類が見つからない場合は、自治体の建築担当部署などへ相談する必要があります。
建物図面
各階の面積、区画、避難経路、階段、設備位置などを確認します。
借主が予定する間取りや用途変更が可能かを検討する際に必要です。
消防設備点検報告書
現在設置されている消防設備と、点検状況を確認します。
未改修事項や指摘事項が残っていないかも確認します。
過去のテナント用途
以前どのような事業者が入居していたかを確認します。
ただし、過去に同じような事業者が入っていたからといって、現在も同じ条件で使用できるとは限りません。
増改築・用途変更の履歴
過去に壁を撤去した、区画を変更した、設備を増設したなどの履歴を確認します。
書類と現況が一致しているかも重要です。
行政との協議や指導の記録
消防署や建築行政から受けた指導、特例承認、是正工事などの記録が残っていないか確認します。
今回の判例でも、建物が過去に特例措置を受けていたことが問題の背景にありました。
借主から申込みが入った後の確認手順
相続した物件に事業者から申込みが入った場合は、すぐに契約するのではなく、次の順番で確認すると整理しやすくなります。
1.借主の事業内容を具体的に確認する
単に「クリニック」「福祉施設」「飲食店」と聞くだけでは十分ではありません。
使用する面積、営業時間、従業員数、来客数、使用する設備、火気の有無などを確認します。
2.図面を持って消防署や専門家へ相談する
借主側には、所轄消防署、保健所、建築士などへ事前相談するよう求めます。
貸主側も、建物全体に影響する工事が想定される場合は、管理会社や専門家へ確認したほうがよいでしょう。
3.必要な工事と概算費用を確認する
契約前に、どのような工事が必要になるかを確認します。
消防設備だけでなく、電気容量、給排水、換気、空調、防音なども対象になります。
4.貸主工事と借主工事を区分する
建物本体に関わる工事と、借主の内装工事を区分します。
工事の内容だけでなく、費用負担、所有権、退去時の原状回復についても決めておきます。
5.許認可が得られない場合の扱いを決める
行政確認が契約前に完了しない場合は、必要な許認可が得られなかったときの解除条件を定めます。
解除できる期限、違約金の有無、支払済み金銭の返還範囲などを契約書へ明記する必要があります。
6.確認結果を契約書や覚書へ反映する
口頭での確認だけでは、後から認識が食い違います。
誰が何を確認したのか、どの工事を誰が負担するのかを、契約書や覚書に残します。
貸主が知らなかったとしても、説明の仕方には注意が必要
今回の判例では、貸主に消防設備の問題を積極的に調査し、借主へ告知する義務は認められませんでした。
ただし、どのような場合でも貸主に責任がないという意味ではありません。
たとえば、貸主が目的の用途では使用できないことを知っていたにもかかわらず説明しなかった場合や、「そのまま開業できる」と明確に説明した場合は、異なる判断になる可能性があります。
相続した物件では、相続人自身が事情を知らないこともあります。
だからこそ、確認できていない事項について安易に断言しないことが重要です。
募集時には、次のような表現を区別する必要があります。
- 「クリニック利用相談可」
- 「貸主としてクリニック用途を検討可能」
- 「行政上の許認可や法令適合性は借主による確認が必要」
- 「必要工事と費用負担は契約前に協議」
「クリニック可」とだけ表示すると、借主がそのまま開業できる物件だと受け取る可能性があります。
募集条件の表現についても、不動産会社と慎重に整理したほうがよいでしょう。
高額な工事が必要なら、貸す以外の選択肢も比較する
相続した事業用物件に高額な設備工事が必要だからといって、必ず工事をして貸す必要はありません。
物件の状態や市場性によっては、次のような選択肢も考えられます。
- 一般事務所など、追加工事の少ない用途に限定して貸す
- 工事費を貸主が負担し、高い賃料や長期契約を目指す
- 借主に工事費を負担してもらう
- 現況のまま売却する
- 改修後に売却する
- 建替えを検討する
- 一棟全体の用途やテナント構成を見直す
たとえば、1,300万円の工事を行っても、賃料収入で回収するまでに長い期間がかかるのであれば、別の用途で募集したほうが合理的な場合があります。
一方で、長期契約が期待できる医療施設へ貸すことで、工事費を負担しても安定した収益が見込めるケースもあります。
判断する際は、工事費だけでなく、想定賃料、契約期間、空室期間、固定資産税、将来の修繕費、売却可能性なども含めて比較する必要があります。
まとめ
今回の事例では、クリニックを開業する目的で物件を借りた借主が、契約後に消防法上の問題を知り、貸主に約4,113万円を請求しました。
しかし裁判所は、設備工事や減床によって利用する方法が残されていたことや、契約前に消防署へ照会すれば問題を把握できたことなどから、借主の請求を認めませんでした。
特に重要なのは、借主が所轄消防署へ事前照会しなかったことが、重大な過失と判断された点です。
この判例は借主側の確認責任を示したものですが、相続した事業用物件を貸す側にも重要な示唆があります。
相続人は、建物の設備や行政との協議経緯を十分に把握していないことがあります。
その状態で特定の用途を前提に募集すると、契約後に高額な工事や用途上の問題が発覚する可能性があります。
相続した店舗、事務所、テナントビルを貸す際は、次の点を分けて確認することが重要です。
- 貸主としてその用途を認めるか
- 行政上、その用途で営業できるか
- 必要な設備工事を実施できるか
- 誰が工事費用を負担するか
「貸せる物件」と「借主が営業できる物件」は、同じではありません。
建物資料を整理し、消防署や建築士などへの確認を行い、工事区分と費用負担を契約書へ反映する。
そのうえで、賃貸、改修、売却などの選択肢を比較することが、相続した事業用不動産の活用で失敗しないための第一歩です。
出典
- 東京地方裁判所 令和3年11月29日判決
- 一般財団法人 不動産適正取引推進機構 RETIO No.129
- 判例解説「消防法の規制によって賃貸対象物件が事業目的として利用できないとする借主の訴えが棄却された事例」
注意事項
※本記事は、東京地方裁判所令和3年11月29日判決を紹介したRETIO No.129掲載の判例解説をもとに、相続した事業用不動産を賃貸する際の注意点を整理したものです。判例自体は相続を直接扱ったものではありません。個別の契約、法令適合性、相続手続きについては、弁護士、建築士、所轄消防署、税理士その他の専門家へご確認ください。
